*第80回メキシコ学勉強会 2010年10月18日
「ニューヨーク・ラテンの魅力〜移民が地元民となったとき、サルサは生まれた」
★キューバ革命以前
20世紀前半はキューバ音楽が世界を席捲した時代である。
ソン、マンボ、チャ・チャ・チャ、パチャンガなど・・・。20世紀の前半(ロックンロールの誕 生 / キューバ革命まで)、キューバは、世界的な音楽の流行の発信地だった。
ジャズとラテンの関係
最重要人物=マリオ・バウサ(Mario Bauza)
1911年ハバナ生まれ。子供のころからクラシックのクラリネットを学び、ダンソンのアント ニオ・マリア・ロメウのオーケストラに所属していた26年、録音のために初めてニューヨーク に滞在。そのときに体験したジャズに大きな衝撃を受け、30年代はじめにニューヨークに移住。 トランペット&サックスに持ち替え、アントニオ・マチンの楽団などで働いたあと、スイング ジャズの名門チック・ウェッブ楽団の音楽監督に。そのころデビューまもないエラ・フィッツ ジェラルドと知り合う。その後39年にキャブ・キャロウェイ楽団の音楽監督に。ここには若き ディジー・ガレスピー(tp)が在籍していた。40年、幼馴染の歌手マチートとともに、アフロ・キ ューバンズを結成。
「ラテン・リズム+ジャズのアンサンブル=アフロ・キューバン」
→→→のちに、サルサ/ラテン・ジャズへ
M Okiedoke / Machito Orchestra featuring Charlie Parker(48年または49年)
マンボの熱狂!
・・・1950年代、NYではマチート、ティト・プエンテ、ティト・ロドリゲスを中心に大ブームに!
M Para Los Rumberos / Tito Puente (『Cuban Carnival』 1956年)
★キューバ革命後
1959年、キューバで「パチャンガ」が大ヒット〜最後のキューバ発・大ブームに。
しかし、国交断絶(61年)により、最新のキューバ音楽は事実上消えてしまう。
→→→ニューヨークの音楽家たちによる試行錯誤の時代へ。
ニューヨーク・ラテンの真実
・・・キューバ人、プエルトリコ人、ドミニカ人、ユダヤ人、アフロフィリピーノ、白人ほか、 あらゆる人種・民族が関わる。
ブーガルー・ブーム(英語では“ラテン・ソウル”)
「キューバ音楽+R&B+ジャズ+ロック+英語=ブーガルー(boogaloo / bugalu)」
※ 移民としてではなく、地元民としての意識・・・地元民のソウル=ブーガルーである。
M Bang Bang / Joe Cuba (『バン・バン、プッシュ・プッシュ・プッシュ』1967年)
M Subway Joe / Joe Bataan
価値観の大きな転換が起こった時代・・・
公民権運動〜ブラック・パンサー〜ヤング・ローズ〜ヒッピー〜サイケ〜ドラッグ
プエルトリコの重要性
1967年『エル・マロ』・・・ウィリー・コローン=エクトル・ラボーのコンビがデビュー!
ヒバロ音楽(白人系) × アフロ音楽(黒人系)
M La Murga / Willie Colon (1970年ごろ?)
ラテン音楽と米国音楽のミックス
Azucar / EDDIE PALMIERI (『LIVE AT SING SING』1971年)
★同時期に西海岸ではラテン・ロック〜サンタナなど
→→→ビル・グレアムのバックアップによる・・・・・・プエンテとサンタナ聴き比べ
サルサの時代へ
・ 1971年8月26日
ファニア・オール・スターズ『ライヴ・アット・ザ・チーター』『アワ・ラテン・シング』
*映像:映画「OUR LATIN THING」Abran Paso / Orchestra Harlow
さらなるミックスへ〜ディスコ時代〜クラブ・ミュージックへ
21. Lucumi, Macumba, Voodoo / EDDIE PALMIERI(『ルクミ・マクンバ・ヴードゥー』1978年)
22. Mestizo / JOE BATAAN(『Mestizo』1980年)
ニューヨーク←→キューバ・プエルトリコの関係
1898 米西戦争〜キューバ独立(1902)、プエルトリコは米国の支配下へ
20世紀初頭〜 プエルトリコからニューヨークへの移民が始まる
20年代 キューバでソンがひろまる
1930 「エル・マニセーロ」が世界的大ヒット
1930年代 スイングジャズ楽団でラテン系ミュージシャンが活躍
1940 マチート&マリオ・バウサによってアフロ・キューバンズ結成
40年代 ジャズとアフロ・キューバンの交流
第二次大戦後 プエルトリコ移民激増
40年代後半 マンボ・ブーム始まる
50年代 マンボ全盛期〜“パレイディアム・デイズ”(ニューヨーク)
50年代なかば チャ・チャ・チャ誕生〜ブーム
1959 キューバ革命
1960 パチャンガ・ブーム
1961 キューバ〜米国間外交関係断絶
1964 公民権法・成立
60年代なかば ブーガルー・ブーム
1971 ファニア・オール・スターズ『ライヴ・アット・ザ・チーター』・・・サルサの成立
70年代 ニューヨーク・サルサの黄金時代
80年代〜 やがてヒップホップやハウスの時代へ〜ファニア・レコード衰退
<証言:ビル・グレアム>
ブロードウェイ53丁目のパレイディアムには、ハイスクールの最上級生だった時分から通って いた。入場料は1ドル50。あそこに行くなら、水曜の夜に行かなきゃ嘘だ。家を出ると、ブルッ クリン・カレッジに向かい、夜の8時か9時にマンハッタンに戻ってくる。そこからはパレイデ ィアムに直行だ。教科書はクロークに預けて、何時間もぶっつづけで踊りまくる。朝の3時か4 時ごろまで。時にはその足で、ブルックリンの学校に行くこともあった。
(中略)
パレイディアムの何がすばらしかったかというと、そこに集まった人たちは、みんなダンスを して楽しい一刻をすごすのが目的だったんだ。そして、そういう人たちの気分を浮き立たせて いたのが、音楽。そう、音楽だった。
(中略)
時には同じ曲が15分から20分ほどもつづくこともあった。バンドが曲を引きのばすんだよ。次 から次へとソロを入れて。最初はピアノ、今度はパーカッション、今度はブラス、そしてまたヴ ォーカルに戻る、といった具合に。マチート。ティト・プエンテ。ティト・ロドリゲス。誰もがえ んえんと踊りつづけ、ついにはボールルーム全体が揺れはじめる。全員がいっぺんに愛し合って いたとまでは言わないにせよ、みんながこのすばらしい嵐の「目」にいたのはたしかだ。最高の グルーヴに身を任せて踊りながら。しばし、下界のことは忘れて。
(中略)
わたしにとってのパレイディアムをひとことで形容するとしたら、バッテリーを再充電するとこ ろ、となるだろう。そいつをあそこの壁に突き立てとくだけでいい。数時間後、そこを出るとき には、すっかり快調になっている。そして地下鉄に乗り、朝の4時か4時半ごろ家に帰るわけだ。
――「ビル・グレアム ロックを創った男」
ビル・グレアム、ロバート・グリーンフィールド共著:奥田祐士訳 / 大栄出版
※1931年ベルリン生まれのポーランド系ユダヤ人。
伝説のライブ・ハウス「フィルモア」の経営者としてロック文化を牽引。
※ パレイディアム=50年代、ニューヨークでマンボ・ブームの中心地となったナイト・クラブ
<証言:エディ・パルミエリ>
パレイディアムでは、日曜日の客は大多数がブラックだった。水曜日はユダヤ人が多くて、金曜 日はラテン系が多かった。ギャンブラーがいて、みんないい服を着ていた。土曜日はもっと典型 的なラテン系の工場労働者とかが多く、そういう人たちはコルティーホが好きだった、58〜60 年ぐらいのパレイディアムの土曜日はそんな人たちでいっぱいだった。そして日曜日は80〜90 %がブラック。踊るのが好きで、うまかった。ラテン音楽を踊るのもね。隣りはバードランドだ から、ジャズ・ミュージシャンがパレイディアムに聞きにきていた。そしてラテンのミュージシ ャンたちもバードランドに聞きに行っていた。ベイシー、エリントン、スタン・ケントンなんか をね。それぞれが互いに影響されていた。当時は、ラテン・ジャズではなく、インストゥルメン タル・マンボと呼んでいた。つまりダンサブルなジャズということだ。プエンテは素晴らしいア レンジでインストゥルメンタル・マンボを演奏していた。ティト・ロドリゲスもそう。もちろんマ チートも。ラテン・ジャズという言葉はあとからできたんだ。
(2007年8月・東京で)
<証言:ラリー・ハーロウ>
60年代の米国で起こっていたのは革命だ。公民権運動、ベトナム戦争、ブラックパンサー、ビ ートルズ・・・すべてが変化していたんだ。そんな中でニューヨークのミュージシャンたちは、そ れまでのキューバ音楽のような単純なものでなく、リアルな歌詞、リアルな歌を作るようになっ ていった。人間について、戦争について、政治について・・・。またアレンジャーたちは、ビ・バッ プ・ジャズをヒントに、より高度なコード・プログレッションを使うようになった。6 thや7thだ けでなく9th、11th、13thという風に。アレンジも歌も複雑になっていったが、ニューヨーク のラティーノたちはこの音楽を気に入った。“これは俺たちのものだ!”とね。“ほかの誰のも のでもない。俺たちのものだ!”と。そして、僕らが演奏するところには、どこでも、たくさん の人が見に来た。それがどんどん大きくなっていったんだ。
(2007年10月・東京で)
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