パラグアイ戦争(三国同盟戦争)について

1、はじめに 当時のパラグアイ
パラグアイは独立後、フランシア、カルロス・ロペス、ソラーノ・ロペスの3代にわたっ独裁政治が続いた。秘密警察を組織し、反政府活動を弾圧、しかし、この時代パラグアイは土地を国有化し、工場、鉄道などを建設し、国力は大いに上がり、国の借金はなかった。その金で軍事力を増強した。

2、ソラーノ・ロペスの人となり
トンプソン氏によると、雄弁家であった。猜疑心が強く見栄っ張りで、ヨーロッパからつれてきたリンチ夫人を溺愛し、戦争が始まってからは深酒し、残虐行為を働くことになった。しかし、トンプソン氏はロペスを裏切ったわけで、その発言は割り引いて考える必要がある。その後、パラグアイのナショナリズムの高揚とともに彼は英雄になった。

3、開戦計画
1862年、アルゼンチンは国家統一をとげたが、エントレ・リオス州長官のウルキーサは不満を持っていた。また、パラグアイの南隣のコリエンテス州はパラグアイと文化風俗が似ており、パラグアイに親近感を持っている人も多かった。そこで、ロペスはウルキーサとコリエンテス州が反乱をおこし、パラグアイに味方してくれると思った。また、当時のミトレ大統領は欧化主義者で、ガウチョ的な文化を嫌っていたが、その結果、アルゼンチン内のガウチョ勢力から嫌われており、パラグアイは彼等の支援をあてにしていた。 また、ウルグアイは2大政党の対立が続いており、片方はパラグアイの支援をあてにしていて、ウルグアイにブラジルが侵攻したさい、パラグアイに助けを求めた。

4、開戦の発端
マヌエル・ジ・オリンダ号の拿捕。あてにしていたウルグアイの反政府勢力は弾圧され、かつウルキーサもアルゼンチン政府に恭順を誓う。三国同盟条約が締結され、パラグアイはブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3国と戦争することになる。条約の秘密部分がマスコミに暴露され、過酷な内容にパラグアイは戦争をするしかなくなる。

5、開戦
パラグアイは北のマット・グロッソ州に侵攻し、また南のコリエンテス州にも侵攻。しかし、思っていた反乱はなく、パラナ川、ウルグアイ川をそれぞれ南下していたパラグアイ軍は大敗を喫する。 また、リアチェエロの川戦でパラグアイ軍は敗北、外洋への出口を失う。→敗戦の理由

6、戦争はパラグアイ国内に
パラグアイ軍は国内に引き上げるが、広大な湿地帯、ウマイタ要塞などに阻まれ、進軍は停滞。しかし、5月24日の戦い(図参照)では大勝

7、クルパイテイの戦い
ミトレ大統領とロペスの会談。ウマイタ要塞前面のクルパイテイに連合軍は攻撃をしかけるが、待ち伏せしていたパラグアイ軍の反撃を受ける。湿地帯に足を取られた連合軍は大敗

8、クルパイテイ戦後
のち15か月は大きな戦いはなく停滞。和平交渉の推移。ロペスはアルゼンチンの反乱の知らせを聞き、戦争継続を選択

9、ディアス司令官の死
パラグアイ軍の勇将ディアスが戦死し、満をじした連合軍がパラグアイ軍を攻撃。ウマイタ要塞は陥落しないが、連合軍の艦隊がパラグアイ川を通行できるようになり、艦隊はアスンシオン市を砲撃

10、アスンシオンの陥落からセロ・コラまで
アスンシオンやウマイタ要塞が陥落。ロペスはわずかな兵を連れて北へ逃走。その後、わずかな少年、老人、傷病兵をつれて戦争を継続するが、最後はセロ・コラでブラジル軍の襲撃を受け、ロペスなど戦死。トンプソンは、ブラジルが意図的に戦争を延ばし、パラグアイ人を殺していたと主張

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